TSFエロマンガにおける女性性の「いいとこどり」-エロマンガ批評(2)

1.はじめに
マンガ、アニメ、映画などのサブカルチャーの分野では男女の精神が入れ替わってしまう物語や、何らかの要因で女体化、あるいは男体化してしまう物語なのが盛んに描かれてきた。最近の例を挙げれば、新海誠監督作のアニメ映画『君の名は。』は前者の「男女の精神が入れ替わってしまう物語」に当てはまる。また、高橋留美子作のマンガ作品『らんま1/2』では、呪われた泉に入ってしまったことでお湯をかぶると体が女になってしまう主人公早乙女乱馬が主人公の作品である。この作品は後者の類型に当てはまる。これらの一部の例にとどまらず、性別越境を題材とするマンガやアニメ作品は多数存在する。


 男性向けの性表現を描いた漫画(以後「エロマンガ」)でも性別越境は登場している。例えば、雪野みなと『ついてない少女』では、風采が上がらない男が、モテようとしてネット通販で購入した「モテ薬」を飲んだところ、金髪美少女に変身してしまう。結果、男たちに「モテ」ることとなり、犯されてしまう。


 この記事では、性別越境を描いた作品と周辺分野について検討し一応の定義を与えた後、性別越境を描いた作品群についてジェンダーセクシュアリティ論の観点から批判検討を行う。

 

2.TSFとは何か
 性別越境を描いた作品群のことを通称「TSF」(Trance Sexual Fiction の略)と呼ぶ。TSFとは、「生物学的に女もしくは男であり、生物学的性と同じジェンダーを学習して生きてきたと思われるキャラクターが、何らかの要因で生物学的性が各々別のものに入れ替わってしまう作品」のことを指す。『らんま1/2』や『君の名は』を思い返してみてほしい。この定義に則るのであればほかの隣接分野との差異がはっきりするように思われる。例えば、二次創作において、原作のキャラクターの性別を転換させて表現した作品があったとしても、二次創作の限りにおいて「性別越境」の部分を描いていなければTSFとは呼ばれない。また、女の子らしい様態をまとった女の子らしい「男の娘」や「ショタ」も、生物学的性の変更を伴っていないため「TSF」とは呼ばれない。TSFは肉体的な変化や、精神の入れ替わりといった過程を重視するのである。

 

3.TSF作品を検討する意義
 TSF作品を検討することによって、以下の二つのことを検討することが可能であるように思われる。第一に、男性から女性への性転換(逆もしかり)を観察することを通して、作品における男女観の違いを観察することが可能であること。第二に、TSF作品を検討することで同一のキャラクターが性別越境を通して性行動がどのように異なって表象されているかを観察することが可能であり、「ベッドの上におけるジェンダー」を明らかにできることである。

 

4.作品の検討⑴ードバト『限界おじさん女子先輩になってみた』
 以下では作品の検討に移る。今回検討するのは、サークル「コデインガール」のドバト(2018)『限界おじさん女子先輩になってみた』である。


(1) あらすじ
当作品は主人公の「おじさん」が「おじさんは限界でした…」と独白するところから始まる。「度重なる残業…消える有給休暇…」「辞めていく同期に補充されない欠員…減るボーナス…」に苦しむおじさんの唯一癒しになっているのは女児向けの筐体ゲームである「プリチャネ」である。泣きながらプリチャネをプレイするおじさんは「もう無理だよう…疲れちゃった…どうしていいかわかんないよう…」「助けて…助けて…!」とつぶやく。すると突然女児の格好に体と服装が変化する。何とそれはプリチャネで遊んでいたキャラクターそのものだった。女児の格好になったおじさんは「一番可愛い女の子の体で一番可愛いセックスがしたい…!」と思い、周りの男性との性行為を実行する。性行為の後、男性達に「すごく可愛かったです……」「元気をもらいました!」と言われた「元」おじさんは「私こそ……ずっと誰かに可愛いって言ってもらいたかったんです」と言い残しその場を去っていく。右手を挙げて走り去る元おじさんに「おじさんはきっと明日はちょっとだけ頑張れますね」「頑張れおじさん」「素敵なおじさん」という文字が挿入されて作品は終わっている。

 

(2) 検討
主人公の「おじさん」は企業勤めのつらさ、すなわち現代社会において「男性特有の生きづらさ」の問題の解消を目的として女児向け筐体ゲームをプレイしている。


 女性を生産の場から追放した近代資本主義体制の当然の結果として、男性には過酷な労働が課されるということは男性学の分野において検討されてきた(田中 2009や伊藤 1996を参照)。ここで近代資本主義体制から逃れる「逃亡先」として女児向け筐体ゲームのキャラクターが選択されているのである。また、女児に「なってしまう」ことによって、男性に向けられる「責務」から逃亡することが可能である。以上からおじさんがなってしまった「女児」には以下の意味が含まれているように思われる。第一に、「生産から逃れることができる非生産性」。第二に、「男性性から逃れることによって得られる自由さ・奔放さ」である。「女児」はもっぱら男性性から逃避するための記号として消費されているのである。もちろん、ここにいう記号としての「女」には生産から排除されアンペイドワークに従事しなければならないとか、性暴力に日々脅かされなければ生きていけないとかいったフェミニズム運動が問題視し続けてきた「女特有の生きづらさ」は無視されている。おじさんは女児になったが、男性に身を任せて性的快楽を享受する。ここに望まない妊娠や性暴力への不安といったものは見られない。
 とどのつまり、この作品のTSFにおいて、男性特有の生きづらさの解消としての少女性は求められているが、女性特有の生きづらさは意図的に描かれていないと考えられる。「少女性」とはそのような負の面をそぎ落とし、男性性から逃避することだけを目的とされた虚像に過ぎず、現実の女性性を反映したものではないのである。男性から見た女性性の「いいとこどり」とでも呼べるものだ。
 ちなみに、ほかのTSF作品においても、男性が女性になった結果、女性性の「いいとこどり」をするという描写は見られる。例えば、『らんま1/2』のらんまは女性の見た目をしているとき、買い物に行き、「かわいい女性」という記号を利用して、店主の男におまけをつけてもらうという描写がある。


 おじさんは女児になり、「男性とのセックスを行いたい」という欲望、つまり、男性に犯されたいという「男性性」規範から逸脱した「受け身の欲望」からほかの男性との性行為を行うが、男性が女児という見た目を装いながら性行為に及ぶという点で、少なくとも現在の異性愛を中心とした性規範からの逸脱となっている。しかし、その逸脱の「言い訳」として、おじさんの生物学的性が「女性」であるということがTSFという作品の設定から賦与されることにより、「逸脱」の違和感が減軽されている。

 

 また、おじさんが最後に「私こそ……ずっと誰かに可愛いって言ってもらいたかったんです」とのセリフを残すのも示唆的である。中年の男に対して「かわいい」という言葉は基本的に向けられることはない。「かわいい」という言葉は相手のフラジャリティを指して発せられる言葉であり、主に女性に向けて使用される。男性には「かっこいい」「きもい」という言葉は発せられるが、「かわいい」という言葉は向けられない。男性は性的に客体化されてみられることはジェンダー化された現代社会において稀である。「かわいい」といってもらいたくても、「かわいい」と呼ばれうる資源を「おじさん」はもっていない。この作品においては「女児」になることによって「かわいい」と呼ばれうる資源を獲得し、現にそう呼ばれることによってカタルシスを得ている。

 

(4)まとめ
 議論をまとめると、この作品において「女児」に投影されている意味は以下の三つになる.

(1) 資本主義生産体制から逃れた非生産的な主体
(2) 男性性規範から逃れた自由奔放な主体

(3)男性に犯されてみたいという受け身の欲望を果たすことのできる主体
(4) 「かわいい」と呼ばれうる資源を持っている主体
   
 これら三つの主体を獲得したおじさんは「女児性」を謳歌することとなるのだが、これらには女性特有の生きづらさは排除されており、「女性性」とされるものの「いいとこどり」が行われている。当然この「女性性」とは男性に期待されるものとしてのそれであり、現実を表象したものではない、「都合のいい女性性」である。当作品は男性と男性との性行為を通じて異性愛規範に異議を唱えているとともに、男性性からの逃避も描いているのだが、TSFという設定を利用することによって異性愛のベクトルにおいて男性同士の性行為、もしくは「男性に犯されてみたい」という欲望を「違和感」なく描いている。また、「つらい男性性」と「自由奔放な女性性」とを対置している。よって、男性問題へは言及しているが、女性の問題については意図的に無視しているのである。

 

参考文献

伊藤公雄(1996)『男性学入門』作品社。

田中俊之(2009)『男性学の新展開』青弓社

サークル「コデインガール」、ドバト(2018)『限界おじさん女子先輩になってみた』。

佐波サトル『放課後の玩具』所収「ボーイッシュ」ーエロマンガ批評

⑴ あらすじ
主人公=男のもとには毎年の夏休み親戚の小学生の女の子「マキ」が親の仕事の都合で泊まりに来る。マキは普段から男子ばかりと遊び、足を大きく開いたり、男子の前で着替えたりするなど、おおよそ「女の子」らしくない行動をとっているが、母親からも男からもこのことを注意されている。マキは「学校でもそんな注意されるけどさ いくら言われてもオレそういうのサッパリだもん」「女らしさとかわからないから教えて欲しいぜ」と主人公に言い放つ。そこで主人公は、「女らしさ」を教えるために、唐突にペッティング、性行為におよぶ。この夏休み中の教練によって言葉遣いも修正される。一人称「オレ」から「わたし」に、語尾は「だもん」「だぜ」から「なの」「してね」「かしら」というふうに。主人公はマキに対して「お前はいい女になるよ」と呼びかける。その後、マキの「わたしもっといい女になってるね」というセリフで話は終わっている。
(2)作品に対する考察
ジェンダーの構築性
 マキは「足を開く」という行為、「だぜ」「オレ」という女性が使うと違和感がある言葉を話す等、「女らしく」ない行動を日ごろから注意されている。社会的には生物学的に「女」である人は「足を閉じる」、「女性語を用いる」ことを当然のように期待されているし、そこから逸脱する人物は矯正の対象となる。行動や言葉遣いは常に社会的に望ましいものになるよう常に構築・矯正にさらされている。
少女との性行為を描いたこの作品は、そのスティグマを緩和するためにその行為に至る「言い訳」を準備する必要がある。少女愛を扱った「エロマンガ」でありがちなパターンは「少女に言い寄られて仕方なく」、「教育のためやむを得ず」といったものがあるが、この作品は「教育のため仕方なく」の部類に入るだろう。
 この作品の特徴は「女らしさ」を身につける「教育」のために「性行為」を用いるということである。性行為は異性同士の場合怏々として男性主導になりがちな、ジェンダーが最も明らかになりやすい場面であるということができる。「男性」は女性にペッティングを「する」側であり、また男性器を挿入「する」側である。それに対し、女性はペッティング「される」側であり、男性器を挿入「される」側である。ここにおいて男性は「主体」であり、女性は「客体」の立場が付されることとなる。(その行動は明らかに「悪い」としても)主人公は、マキの「女性性」「女らしさ」を発揮させる教育の場として「ベッド」を用いている。マキに一通りペッティングを施した主人公は「少しは女の自覚が出てきたかな」と言う。感じさせる「べき」なのは男であり、感じさせられる「べき」なのは女の側なのだ。主人公はその男女の非対称性を、それが最もはっきり表れる性行為中のベッドを用いてマキに教練しているのである。
 あらすじで述べたように、マキは言葉遣いも「男言葉」から「女言葉」へ矯正される。
足を開いているときに主人公に注意されたマキは「ママみたいなこと言うなよ」「そういうのオレピンとこねーし」と言い返しているが、「女言葉」を覚えさせられた後は、主人公に何も言い返せなくなっているのが示唆的だ。レイコフは「女言葉」という概念に次のような性格を指摘している。女は説得的ではない話し方をするがそれは女性が非権力者部外者であるからと同時に、自己主張は「女らしくない」とされるためであると指摘している(レイコフ 1990)。マキは自己主張をする「男言葉」を「女言葉」に矯正されることで主人公に従属的な都合の良い(=ヤらしてくれる)女に変貌を遂げてしまうのである。
この作品は、男性と女性の非対称性を性行為とそれに伴う主体の矯正によって描いている点でジェンダー構築主義的な(?)作品と言えるかもしれない。

②主体改造の気味悪さと快楽
 マキは男性性を剥ぎ取られ、女性ジェンダーを身につけることによって主人公にとって「都合の良い」女に変貌を遂げてしまう。そこに気味悪さがある。ただ、作品の要点も「ジェンダーを強制的に構築する・される」というSM的な男女観のパロディーにあるのだと考えられる。性行為以前にはマキの男性性を、以後にはマキの女性性をことさらに強調することによって、主人公がマキを「モノ」にしたというサディスティックな、もはや気味が悪いともいえる男性中心主義的な女性に対する所有欲を披歴している。そのポルノグラフィー特有の「男臭さ」に興奮することもありうる。また、大人に性格を強制的に根本から改造されてしまった少女に対して同一化し、マゾヒズム的な欲望を刺激することもありうる。
エロマンガに「改造」モノはたくさんある。例えば、先輩にSMを教え込んで虜にしてしまう『桜田先輩改造計画』や催眠でいじめっ子をモノにしてしまう『イジラレ』のような。「ボーイッシュ」はその改造の対象が「ジェンダー」だっただけなのかもしれない。

参考文献
佐波サトル(2020)「ボーイッシュ」,『放課後の玩具』所収,一水社
ロビン・レイコフ(1990)『言語と性―英語における女の地位』かつえ・あきば・れいのるず訳,有信堂高文社; 新訂版。

続・東京都の「BL規制」に関するちょっとした考察

当事者の方からの感想を読んで

 

前回のブログで、「性のダブルスタンダード」ゆえにBLのゾーニングは難しいのではないかという旨のことを書いた。そしたら、腐女子当事者の方々から、「私はそんなこと気にしていない!むしろ、ゾーニングしてもらって、堂々とBLが買いたい!R18指定してもらった方が白抜きも少なくなる!」という意見をたくさんいただいた。


 
 上記の「性のダブルスタンダード」の命題は守如子『女はポルノを読む』を参考にして導き出したものだ。守は「ポルノグラフィを女性が買うことは、性の二重規範を侵犯するために男性以上に批判される可能性がある。また、女性自身が性的好奇心の対象にされ、性被害に直面することさえありうる。だから。女性たちにとっては、ポルノグラフィを買っていることが明らかになってはならないのである。」(守 2010,85-86)と述べている。その結果として、BL・TLというジャンルは、ポルノチックなものとそうでないものが混在し、表紙がポルノチックでないものが大半である(守は「ハードなBLも、レディコミと同様に、表紙に男性の裸体を使うことはない」と言い切っている。(守 2010,85))。

 

 上記のような守の議論を敷衍させれば、女性はポルノグラフィを買っていることが表ざたになってはならないため、ポルノをポルノとして隔離するゾーニングをBLに適用することは大きな問題を抱えることになる。

 

 しかし、確かに東京都の指定を食らっているBLの表紙は明らかにポルノチックなものがある。例えば、7月に指定を食らったGO毛力『ごちそうさま、ヴァージンチェリー』の表紙は、男性の乳首が出てしまっている(図一)。同じく7月指定された綿レイニ『PLAYMATE』も裸体が出ている(図二)。表紙帯には「ナカでイクとこ見てもらおうよ」とかなりポルノチックな煽り文句が並んでいる。

 

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図一(GO毛力 2019)

 

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図二(綿レイニ 2019)

 このように指定されている書籍のの表紙はかなりポルノチックなものだ。守が述べている状況とは異なる事態が生じていることは間違いないだろう。一体どういうことなのか。

 

電子の影響?

 

 実数は不明だが、BLにおいても、電子書籍化の波が押し寄せている。寄せられたコメントの中にも「電子しか読まないから関係ないよ」と言っている腐女子の方がいらっしゃった。

 

 電子だけで読む場合、守が述べている性のダブルスタンダードの問題は完全に解決されることとなる。ポルノグラフィを読むことを成立させる条件として、一人でそういった行為に臨む「個室」が必要であることがあげられるが、電子の場合、お店に行って買いに行ったり、誰かに貸してもらったりするなどの相互行為を媒介させる必要はなく、完全にベッドの上で行われる(?)個人的行為になるためである。

 

 この場合、「ポルノグラフィを読んでいるのがバレてはいけないから、過激なものをパスする」といった行動は起こらない。むしろ、だれにもばれないから過激なものを求めるといった心情を可能にする条件を提供する。

 

 ともなると、電子書籍の登場はBLを過激化する条件として成り立っている可能性がある。

 

 「過激な」BLが紙媒体で、本屋で売られているのも、電子の影響だとするのなら説明がつく。完全に個人的な行為として電子でBLを読むという行為が当たり前となった結果、性のダブルスタンダード規範の「内面化」が弱まり、電子での表現を受けて、「過激な」表現の漫画の購入を女性がいとわなくなったのではないか。

じゃあどういうふうにゾーニングの制度を構築するべきか

 意見を聞いて思ったのは「昔ほど性の二重規範の影響は強くないんじゃないか」ということに尽きるといってもいい。弱まっていることを認めるならば、ゾーニングを認めよという帰結に至ることは想像に難くない。では、どういう形でゾーニングをすることが理想的なのだろうか。今思いつく限りでは三つ解決策があるように思われる。

 

1・すべてのBLに成人コミックマークをつけて、男性向けと同じようにゾーニングをする。
2・守が述べているように、ポルノチックなBLとそうでないBLがある。となれば、エッチなものはゾーニングして、そうでないものはしないで売る。
3・全部電子にする。

 

 この三つの中であれば、2が一番穏当であると考える。性のダブルスタンダードが弱まっていることと「過激な」BLが増えていることを認めてゾーニングし、そうでない「穏やかな」(?)BLは分けずに置けばいいのである。男性向けもこうなっている。そもそも「BL」「美少女コミック」といったジャンル分けでゾーニングをするとあまりエッチじゃないものも含まれてしまう。

 

 ここで生じてくる問題は、そもそも分けるスペースがどこにあるのかという問題とスペースが女性用だけでは確保できず、男性向けのコーナーと同じところに配置されてしまうのではないかという懸念だ。この問題をどうすればいいのかということは議論が望まれるところだろう。

 

引用文献

守如子(2010)『女はポルノを読む』青弓社.

GO毛力(2019)『ごちそうさま、ヴァージンチェリー』三交社.

綿レイニ(2019)『PLAYMATE』 Jパブリッシング .

 

 

東京都の「BL規制」についてのちょっとした考察

BLが危ない!

 BLコミックが大変なことになっている。東京都の青少年健全育成条例で規定されている、不健全図書の指定が2018年の12月から2019年7月まで、すべて女性向けのポルノであるBLになっているのである*1。この指定を受けると、区分陳列をしなければならなくなる。またAMAZONでも販売が停止されてしまう。東京都の指定は東京都だけの問題ではなく、全国のBLファンにとっての問題なのだ。

 

 7月28日、さいたま市大宮区で行われた「SF大会」で、「ボーイズラブはなぜ有害なのか」と題した分科会に登壇させていただいた。会場は満杯であり立ち見も出ていた。BL規制に対する関心度の高さがうかがえた。BL作家さんの当事者としての意見や議事録の改ざん問題についてお話が聞け、私にとっても大変参考になった。

 

 しかし、一時間半という限られた時間の中で、話せなかった内容もあったのでちょっとブログに書こうかなと思った次第である。

 

官製社会問題としての「BL」


 なんで8か月にわたってBLが規制され続けているんだろうか。とりあえず議事録から、指定する図書を決めている人たちの発言からBLの何が問題だと思っているのか見ていこうと思う。


 東京都の審議会の人たちは、BLが今増えていて、表現がエスカレートしているのだと考えているらしい。703回の東京都青少年健全育成審議会で青少年課長は、あくまで指定はBLに着目しているわけではないと前置きをしつつ次のように述べている。


いったいなんでこういうものが増えているのかであるとか、こうした描写のエスカレーションがなぜ起きているのかというところにつきましては、我々でも実態はよくわかっていないところも多々ありますので」(東京都青少年健全育成審議会代703回議事録の8-9頁)


 要するに、BLを狙い撃ちしているわけではないが、過激なBL本が増えているから仕方なく我々は指定しているのだ、ということだ。ほかの委員からも同様の発言はちょくちょく出ている。しかし、本当にそうなんだろうか?東京都の職員が、BLが問題だと思い、BLに着目したからこそBLが社会を乱していることが問題となっているのではないか?管見の限りでは、内容が過激になっているとか、BLジャンルの発売部数が増えているとかいったことを示すデータを東京都は示していない。とどのつまり、BLが増えているというのは都の主観に過ぎない*2


 そういう官の側が注目したことによって「発生した」問題を「官製社会問題」という。同じような例として、「非実在青少年」問題があげられる。そもそも社会の動態は変わっていないのに、「非実在青少年」という概念を持ち出して、問題が「存在する」と喧伝し社会問題化しようとしたのは東京都のほうだ。BLについても、都職員がBLに注目しているからBLが問題になっているに過ぎないんじゃないか。


 じゃあなんでBLが注目されているのか?という問いが次に出てくる。次はこの問いについて考えてみたい。


なぜBLは注目されるのか?


 以前は、男性向けが主な規制の対象だった。90年代前半に起こった「有害コミック騒動」でも話題になっていたのは男性向けだった。山本直樹先生(SF大会ではお世話になりました)の『BLUE』もその一つだ。


 指定を回避するために生み出されたのが「成年コミックマーク」である。エロ漫画の表紙にある黄色いあれだ。あれをつけることによって業界の自主規制として区分陳列がなされる。東京都が規制を行う理由として、青少年の目に過剰で有害な性表現が入ってしまうことがあげられるため、区分して陳列(要するにゾーニング)すれば、規制の対象にはならない。『BLUE』も指定後にマークを付けた形で再販売されることとなった。


 となると、男性向けのポルノチックなマンガは最初から業界の自主規制によって青少年の目に入らない形での販売が基本となることになる。この流れがどんどん押し進められれば、グレーゾーンが少なくなり、男性向けのそういったマンガは規制の対象になることはなくなる。では、女性向けではどうか?


 女性向けのポルノは、成年マークを付けた形で販売されないことのほうが圧倒的に多い。有害コミック騒動の時も規制の対象にそれらが含まれてはいなかったし、つける必要性なんて業界団体にはみじんも感じられなかったというのも一つの理由としてあるだろう。女性向けのBLのコーナーが書店に設けられていることはあったとしても、男性向けのように「R18」と書いてある暖簾の中にBLがおいてあるということはない。青少年はR18コーナーに入れなくても、BLコーナーには入ることができるため、東京都にとってしてみれば、区分陳列がされていないとみなされることになる。男性向けが区分陳列されていて、女性向けはされていない。こうなると規制の矛先は女性向けに向かうことになる。その結果があの異様なBLに対する連続不健全指定につながっているんじゃないか。

 

「じゃあ、区分陳列すればいいじゃん」という意見に対する反論


 「じゃあ、女性向けポルノも区分陳列すればいいじゃないの」という声もある。今まで女性向けポルノが区分陳列されていなかったことが問題なのであって、男性向けと同じようにすれば青少年の目にも入らず問題はなくなるではないか、と。しかし、事態はそうは簡単じゃないのだ。


 そもそも、なんで女性向けのポルノが区分陳列されてこなかったか。規制の対象になることがなく、業界団体がその必要に追われていなかったというのも一つだが、「女性がポルノコーナーは入れるの?男性と違って入りづらいよね」という理由もある。


 男性だってポルノ買うときは恥ずかしいじゃん!と思われるかもしれないが、女性には男性と異なる、ポルノを買うときの都合の悪い状況がある。ジェンダー論の分野において、「性のダブルスタンダード」と呼ばれている社会規範である。この規範は男女に異なった仕方で、しかも非対称的に作用する。男性がポルノを読もうがそれは「本能だ」とか、「自然だ」とか、「男性だから仕方ない」とか言われたりする。しかし、女性がポルノを読んでいたら、「淫乱女だ」とか「病気だ」とか言われてしまったりする。少なくとも、男性より、女性のほうがポルノを楽しむことに対する社会的障壁は大きい。ポルノを安全に楽しむことができるのはもっぱらヘテロセクシュアルの男性だけだということもできるだろう。

 

 こういう社会規範が存在する現状で、女性向けポルノを区分陳列したらどうなるか。女性はポルノを読んでいるとバレてはならないので、「R18」と書いてある暖簾をくぐることができる人はそうはいないし、入っていくと男性以上に軽蔑やあざ笑いの目で見られることになる。そういうリスクをしょって女性がそのコーナーに入るか?いや、多くの人は入れないだろう。電子書籍でやればいいかもしれないが、となると書店からBLは消え失せることとなる。上記の理由によって売れないからだ*3


 また、女性向け専用のポルノコーナーを設置できるのかという問題もある。区分陳列をするとなると男性向けと扱いは同じになるため、男性向けのポルノも置いてあるところにBLが並べられることになる。女性は入りづらい。女性向け専用の区分陳列されたスペースを作ろうとしても、そんなスペースがある本屋なんて少数だろう。


 このように、「女性向けであってもポルノだから区分陳列すればいいじゃん!」という意見は上記のような問題を解決できない点で安直すぎるのだ*4ここら辺の議論については、コミケ3日目の西けー26aで売っている同人誌に詳細に書いているので買ってください(ダイマ)。


 こう考えてみると東京都のBL規制はこのような「性のダブルスタンダード」の問題を無視した、ある意味極めて女性に抑圧的、差別的な規制なのではないだろうかという思いも湧いてくる。東京都は、この問題について「だって青少年に悪影響が~」とか、「だってお前らだって子供にこれを見せたくないでしょ~」などと、EBPM(証拠に基づいたポリシーメイキング)も糞もない変な理論を振りかざすだけではなくて、もっと、君たちのやっている規制がもたらしている影響について考えるべきだ*5

 

*1:BLをポルノと呼ぶことについて議論の余地はあるだろうが以降の立論の都合上、ここではBLのことを女性向けポルノとみなしている

*2:出版部数などのデータがあればよかったのだが、東京都も何もデータを出していないことと、調べても出てこなかったので描いていなかったのだが、わかりづらいという意見があったので追記。データがある人は教えてほしい。

*3:守如子『女はポルノを読む』を読むとこの議論はわかりやすいかもしれない。「当事者だけど、大人なんだから買えるわ!なめるな!」という意見もあるかもしれないが、一般論としてそういう規範が存在して行動を阻害しているということは否定できない。どういった形でゾーニングすべきか(あるいはしないか)といったことについては議論が必要だろう。以上、つけていただいたコメントを見て補足。

*4:ゾーニングをすべきではない」と言っているのではなく、状況に合わせたゾーニング方法が必要なのではないかという問題提起である。

waseda-erotica.hatenablog.com

その点についての考察は上記の記事に書いたので(答えは出ていないのだが)参考までに

*5:東京都は指定する際に、成人がアクセスしづらくなるということを考慮に入れないが、実際問題として、指定するとアマゾンでも売れなくなり、またBLの場合だと指定された場合に区分陳列も上記の理由によりできない。また、そもそも論として「青少年に性表現が『有害』だ」ということを示しているエビデンスはどこにもない。

ツイッター社からの返答

5/31、凍結についてツイッター社からの返答があった。

 

「ご利用ありがとうございます。

お客様の異議申し立てを検討した結果、ご利用のアカウントは脅迫や暴力を助長する内容を投稿したため、Twitter利用規約に違反していると判断いたしました。したがって、ご利用のアカウントは凍結されました。アカウントを復元することはできません。」

 

全くお話にならない。暴力脅迫ではないという主張を送ったのに、「それは暴力脅迫です。終わり(笑)」と言って納得するとでも思っているのか?ユーザー数が多いから仕方ないのかもしれないがもう少し誠実な対応をしてほしい。当会にとってツイッターは情報共有の場で大切なものなのだから。

 

ということで以下のような文章を再度送信した。これが受け入れられなければ、東京のツイッター社の方に直接出向くつもりだ。

 

以下、抗議文

 

不可解な理由によって凍結されました。異議申し立てをしましたが、全く受け入れがたい返答だったため再度異議申し立てをさせていただきます。

アカウントのプロフィールにある「shut the fuck up TERF」という文字と銃を構えた画像が今回の凍結の理由になったとツイッター社様のメールからは想像します。

たしかに、純真無垢な守られるべきカテゴリーに対して、銃を向け、「fuck」という汚い単語を使うのは暴力・脅迫と捉えてもらって構いません。

しかしながら、あの画像が作られた目的としては最近、ツイッター上で起こっているトランス差別に反対するということがあります。

TERFとは、「trans exclusionary radical feminist」の略です。つまり、トランスを排除するラディカルフェミニストという意味です。

彼ら、彼女らはトランスに対して、筆舌に尽くしがたい排除、差別言説を毎日ツイッターで垂れ流しています。特に、去年の御茶ノ水大学でのトランス受け入れのニュースが発表されてから、日本におけるトランス排除言説はフェミニストのみならず、一般の方を巻き込んで広がっているように思います。

私は、そのような現状を大変憂慮しています。なぜならば、ツイッター社はトランス排除言説を凍結することをせず、トランス排除を語る場を提供してしまっていること、TERFの側がツイッター上の論争を通じて自らの態度を改善するどころか、より先鋭化させていったからです。

私は現状に我慢できず、あのような少し過激な排除反対のメッセージをプロフィール画像として使用しました。

言説への対抗の意味であり、決して「TERFを撃ち殺せ」といったような「暴力、脅迫」のメッセージを伝えようと思ってあの画像を使用したわけではありません。

機械的に「fuck」という文字や、「銃」に対して凍結の処分を下し、TERFの側が凍結を巧妙に回避して、排除言説を垂れ流しのままにするのは間違っています。

以上の理由から、私はこの凍結はツイッター社の完全なる間違いであり、不当なものであると考えます。

凍結を解除してください。

 

*まさかとは思うがはてなブログさんも、ちょっと過激な文字に反応してこのブログを閉鎖するなんてこともやめてほしい。

 

アカウントが凍結された!!!!

令和一年、5月27日。会長は朝8時に目覚めた。いつものようにトイレでもなく、歯磨きでもなく、いの一番にツイッターを開く。ツイ廃の朝は早い。個人アカウント、自分で建てたサークル「早稲田エロ漫画研究会」のアカウントのTLをくまなく見るのが毎日の日課だ。しかしどういうことだろうか。エロ漫画研究会の画面に行ってみると「エラー」の文字が浮かんでいる。「このアカウントは現在凍結されています」。あ、最悪だ。使用停止処分だがね。何か悪いことをしただろうか?全く身に覚えがない。メールをチェックするとツイッターからメールが来ていた。何々?「プロフィールがhatefulだから凍結したよ!」だって?

 
どうやら純真無垢な青い鳥さんは当会の名前でもツイートの内容ではなく、プロフィールの画像が気に召さなかったらしい。用いていた画像は以下の通りだ。

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ご存知、ゾンビランドサガのキャラクター、星川リリィちゃんだ。「TERF」とはトランスジェンダーに対する差別扇動を行っている人たちのことである。なぜ、日本のアニメのキャラクターが「TERF」に対して中指を突き立てているのかといえば、星川リリィの本名は「まさお」であり、海外ではトランスジェンダーのかわいいアニメキャラとしてみなされたようなのだ。そこでネットユーザーがこうした画像を作ったわけだ。

この画像はイギリスの議会でも好意的に取り上げられていた。日本でのトランス差別言説に暗澹たる思いを抱いていた会長はこの画像をプロフィールに使っていた。本来は、差別に反対する目的で作られた「hateful」というよりも「heartful」と呼んだほうが良い画像である。

こうした経緯があり、会長はこの画像が「hateful」だからと凍結を食らったことに困惑した。「hateful」なのはTERFのほうじゃねえか!!!

というか、いつも検閲に対する嫌悪感は隠していなかったようなアカウントなので、それが検閲されたことにはびっくりした。まるで、去年の早稲田祭で実行委員会が「タテカン規制反対」(早稲田大学の文学部と文化構想学部が入るキャンパスのタテカンが排除の憂き目にあったのでそれに抗議するもの)と書かれたタテカンに「このタテカンを撤去します」というシールを貼った時と同じような状況だ。

そんなこともあり、こちらとしては何も悪いことはしていないので即刻抗議文を送信した。ツイッターは電話での対応をしていないらしい。しかも返信には2、3日かかるとのこと。前々から企画していた5月30日のBL読書会に間に合わない!!!!なのでいつも大学生活用で使っている個人アカウントを連絡窓口にすることにした。面倒なお仕事である。

凍結が解除される確率は高くはないのだろう。そうなったらイベントの告知はできないなぁとか、今までつながってきた人たちとのつながりも切れちゃうなぁとか最悪な状況を考えている。あぁ、早くアカウントを返せ。